節分になると思い出す国語の授業。
小学校中学年の頃、『おにたのぼうし』というお話を国語の授業でやりました。
そのお話のラストでいつの間にかクラスの皆が全員自分とは反対の意見になっておりまして…
先生に呼び出しをいただいた事があります。
今でも納得できずに生きている中年、それがムラタです。
おにたのぼうし、とは。
鬼の子、おにたが心優しい少女と交流をするお話です。
少女の家は貧しくて、お母さんも病気だったと思います。
で、女の子が言うんです。
『うちも節分出来たらなー』って。
そうすれば、家にいる鬼を追い出して幸せな家庭が築けると思っているんですね。
でも、鬼の子・おにたとしては、特に悪い事もしていないし、むしろ探し物を見つかるところに置いてあげたりして良い事をしているんです。
それでも自分が鬼とは言い出せず、豆まきしたい!っていう女の子のために、ぼうしいっぱいの豆を残して、おにたはどこかに消えてお話が終わります。
このラストの、ぼうしいっぱいの豆を巡って、一騒動起こったのです。
ぼうしいっぱいの豆=おにたの死骸説を主張します。
自分は今でも、おにたは自殺したと思ってます。
未練たらたらで死んで、豆になったんだと思ってます。
その時のクラスの意見は
『女の子がとっても優しい女の子だから、豆をまかせてあげよう、そして自分も出て行こう』
でした。
でも、そうなの?って思ったのです。自分は。
自分としては、好きになっちゃった女の子がいて、自分は少しも悪くないのに自分のせいだと濡れ衣を着させられて、寂しく自殺をしたのではないか…と思ってます。
豆=おにた…という描写は、物語の文中に『まだ温かい豆が』とかって書いてあったので、あぁ…死にたてほやほやなのね…だと自分は考えたわけです。
少しも報われない話、それが『おにたのぼうし』なのではないかと思ってます。
個々が納得出来る『もしも…』
もちろん国語だし、絵本だし、いろんな感想があっていいと思うのです。
ただ、もうちょっと見直して欲しいなって思うんです。
知らないという事が罪なのかもしれない、鬼として生まれてきた事が罰なのかもしれない。
ただ、おにたが本当に『女の子が心の優しい子だから』という理由で消えたと教えていくのはいかがなものかと思っております。
だって、相手が優しいから死ぬの?って聞かれたら、嫌ですってなりますもの。
そこで、提案なんですけど…
原作だとあまりにも無残な結果になるので、『もしも…』のお話をクラスで考えてあげるのはいかがでしょうか。
個人個人が納得出来る様なお話のラストを作ればいいと思うのです。
女の子が、鬼に罪がない事に気づく…でもいい。
おにたがこれまでの行いを自白して、鬼=いい奴をアピールしてもいい。
それぞれが悪くないラストを考えていけたら、いいのかなって思います。
…と、あれから何年経った今でも考えているので、やはり『おにたのぼうし』は国語教材として優秀なんだと思います。
悪くない鬼がいるかもしれない、そうやって節分を楽しんでいただければと存じ上げます。
よしなに。